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第2話 境界線とプリンのたとえ話

last update 最終更新日: 2025-12-03 05:53:28

 ばさり。

 法服の裾を鳴らし、判事・司 法子が裁判長席に腰を下ろした。

「令和15年(ワ)第102号、境界確認等《きょうかいかくにんとう》請求事件――開廷しまーす!」

 法子の明るすぎる声に、当事者と代理人が目を丸くする。

 書記官・東條菊乃が条件反射のように後方の法子を振り返った。

「司法の場で“しまーす”は不適切ですわっ!」

 法子は菊乃にウインクを飛ばし、ファイルを開いた。

 菊乃の胸に冷たい汗がにじむ。

──一週間前。桜都簡易裁判所・調停室。

 令和15年(ノ)第58号、境界確認等調停申立事件。

 午前10時。

 法子は昭和レトロなチェック柄ジャケットに太いネクタイ姿で現れた。

「……は、判事。タイムスリップしてこられたのですか?」

「昭和レトロは今アツいんだよ。プリンだって固めが人気なんだからね」

 菊乃は、呆れたように深いため息をつき、吐き捨てるようにつぶやく。

「……プリンを引き合いに出さないでくださいませ」

 当事者と調停委員がぽかんと口を開く。

「はいはい、調停はじめましょっか!」

 申立人は農家の田嶋美佐子、52歳。

 相手方は建設会社勤務の片桐孝志、48歳。

 争点は畑と自宅を隔てるコンクリ塀の境界線だった。

「塀の半分が私の土地に入り込んでいます!」

「測量結果を見れば、そっちこそ主張がズレてる!」

 声が大きくなり、空気が熱を帯びる。

 それぞれの主張を法子はしばらく眺め、ぱん、と手を叩いた。

「はい、ストップ! ……塀をシェアするってことでどう?」

「「「そんなことできませんっ!」」」

 三人の声が揃った。

 菊乃は眼を見開いて立ち上がっている。

「……え? ダメ?」

「当然ですわ! 境界を“シェア”などあり得ません!」

 法子は少し頬を膨らませる。

「でも、プリンだって――」

「あなたのプリンは規律違反ですっ!」

 凍りつく調停室。

 当事者と調停委員があぜんと見つめる。

 沈黙の後、法子は肩をすくめ、小声でつぶやいた。

「……やっぱ固めプリンのほうが良かったかなぁ――昭和レトロ……」

「――ですから! プリンを持ち出すのをおやめくださいませっ!」

 菊乃が机を叩く。

 当事者たちは呆れ顔で、ついに片桐が立ち上がった。

「これじゃ話にならん! 調停は決裂だ!」

「わたしも、もう譲れません!」

 険悪な空気。

 法子は腕を組み、ため息をついた。

「いや〜、やっぱ甘くまとまらないかぁ……」

 菊乃は調停調書に「不成立」と書き込み、事件は通常訴訟へ進むこととなった。

──通常訴訟当日。第一回口頭弁論。

 田嶋美佐子と片桐孝志は視線を合わせないまま険しい表情で座る。

「さて……先日の調停は決裂しちゃったから、今日はスパッと判決を出すからね」

 菊乃は振り返り、息を呑む。

(即日判決!? 本来なら慎重な審理を経るべきなのに――)

 だが法子は気にも留めず、机を指でとんとん叩きながら言った。

「境界ってさ……プリンのカラメルと本体みたいなもんなんだよね」

 一瞬の沈黙。

「……プリンで例える必要はありませんわっ!」

 菊乃が立ち上がる。

 法子は肩をすくめ、控えめに笑った。

 やがて表情を切り替える。

「それでは判決を言い渡します」

[主文]

一 原告・田嶋美佐子の請求を一部認容する。

二 被告・片桐孝志は、測量に基づき越境している塀の部分を撤去せよ。

三 その余の原告の請求を棄却する。

四 訴訟費用は各自の負担とする。

[理由]

「本件塀の位置については、提出された測量図および鑑定意見から越境部分の存在は明らか。

地積測量図・境界標・既存工作物の位置関係も整合しており、被告提出の上申のみではこれを覆すことは困難である。

一方、それ以外の部分については原告の主張を裏づける証拠に乏しく、境界変更を求めることはできない。

よって、一部請求のみを認容し、残余は棄却する」

 静まり返る法廷。

 法子は咳払いし、言葉を継いだ。

「……最後に付け加えます。境界を争う事件は、生活が隣り合わせだからこそ感情的になりやすいものです。けれども、隣人であることは変わりません。塀は越えても、人としての関係は越えられないのです。

どうか判決後も争うのではなく、歩み寄る努力をしてください。控訴期間は判決文を受け取ってから二週間です。双方、代理人とよく相談を」

(え、この人……たった一週間で、ここまで整った判決文を)

 菊乃は息を呑み、胸に小さな驚きを抱いた。

「閉廷します!」

 静かな法廷。

 代理人は小さく会釈を交わし、当事者は険しいままだった。

 法子は裾をばさりと鳴らして立ち上がった。

 執務室に戻ると、所長判事・桐生重信が給湯器の前で胃薬を流し込んでいた。

「……まったく君は。判決のたびに寿命が縮むわい」

 事務官や若手判事が苦笑する。

 一方、机に腰かけた法子は煙草を指で弄び、にやりと笑った。

「ね? 境界線なんてプリンのカラメルと本体みたいなもんだよ。ちょっとずれても味は変わらない。問題は“どう食べるか”でしょ?」

「……っ! プリンを司法判断に持ち込まないでくださいませ!」

「プリンだって固め派とやわらか派がいるじゃない。境界も同じ。枠を守るから秩序になるんだ」

「境界を“やわらかプリン”に例えるなど、判例にも条文にもありませんわ!」

「条文に書いてないなら、ノーカンでしょ?」

「“書かれていない”ことは、許されるのではなく、慎むのですわっ!」

 二人の声が交錯し、職員たちは肩をすくめた。

 桐生はさらに胃薬を取り出し、机に突っ伏す。

「この支部は……どうしてこうも騒がしいのか」

 菊乃は、その様子を尻目に天井を見上げた。

(……この判事、本当に規律を守る気があるのでしょうか)

(つづく)

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